完璧なものをイマイチにする


 志のある官僚と、志のない官僚がいるとします。どちらが官僚にふさわしいでしょうか。

 志のある人が官僚をやった方が、世の中にある課題を発見する能力があっていいように思います。例えば、家が貧しく苦学したために「自分と同じような境遇の子供たちが思いっきり勉強をできるようにしたい」という志のある人がいるとします。そのような志を持つ人は、常に教育のことを考えて世の中をみると思います。この世のあらゆる情報を、教育というフィルターを通して受け取るため、ほとんどの人が見逃すようなちょっとした情報にひっかかりを持ち、それが課題発見のもとになると思うのです。

 官僚なら、発見した課題に対して大きく二つのアプローチをとることができます。ひとつは、既存の法制度の枠内で行政として課題解決に取り組むこと。もうひとつが、新たに法律を作って行政として課題解決に取り組むことです。埋もれた課題を発掘し、対処できる。すばらしいことです。

 しかし、「官僚が課題を発見してその対策を立てる」となると、どうしても、官僚が政治家に政策を提案する「官僚主導」になります。これでは、政治家は法案を可決して法律にするだけの機械になってしまいます。

 そうならないようにするには、政治家が官僚の提案を修正しなければなりません。仮に志しある官僚が作った完璧な原案よりちょっぴりイマイチになってしまっても、修正しなければならないと思います。なぜなら、完璧な原案はその志に沿う形でのみ完璧なのであって、例えば別の志からみたらとんでもない欠陥品かもしれないからです。

 政治家は、完璧なものを作る職人ではなく、なんとなくみんなが納得するようなしないようなものを作り上げて、物事を徐々に良くしたり悪くしたりする人たちだと、私は思っています。

 良くなるのも少しずつなかわりに、悪くなるのも少しずつです。少しずつ悪くなる方が、まだ挽回できそうじゃないですか。


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