歴史と政治」カテゴリーアーカイブ

戦前の政党による行政支配の例


筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』(中公新書)で紹介された、戦前の政党による行政の統制の例は、今の基準で考えるとすさまじいものです。

ある地方の警察の駐在所は政党ごとに存在し、一方の政党が政権についているときは、もう一方は閉まっているとか、消防も反対党の支持者の家は消火活動をしないとか無茶苦茶な話になっています。

今とは全然違う状況なのです。

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戦前の方が行政は政党の顔色を見ていた


筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』(中公新書)によれば、戦前の政党政治に対する批判の中には、「政党による行政の統制が行き過ぎている」というものもあったそうです。そのため、中立な行政に対する期待が強かったのだとか。

現在も、「内閣人事局ができてから官僚は萎縮して、政治家の気持ちを忖度しながら行政を歪めている」という批判があります。

ここで、「今の政治状況は、戦前に似ている!」ということはできません。

戦前の政党による行政の統制は内閣人事局なんてものではないからです。

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議会外の勢力によって倒された内閣


議会で優勢だった田中義一内閣は、議会における野党の追及により退陣するのではなく、「天皇・宮中・貴族院と新聞世論との合体した力」(筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』中公新書P.109)によって倒されました。

議会外の勢力により内閣が崩壊することは、議会における政党間の争いにより政権交替が起こるという政治の仕組みの定着にとって有害でした。

昨日引用した西園寺の言葉は、衆議院総選挙の結果が田中内閣の不正によるものだという疑惑を念頭に置きつつ、それでも「議会が政権に関与しないでどうするのだ」という気持ちを述べたものではないかと思います。

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西園寺公望の言葉


「焉んぞ知らん、悪政なりと断ずるは何を以て標準とするや、何人が之を決定するや、危険なることなり。」

これは、最後の元老と呼ばれた西園寺公望の言葉です。

時は戦前、田中義一内閣末期のことでした。田中内閣は選挙不正疑惑や天皇の政治利用ともとれる軽率な発言などがあり、不人気な内閣でした。とはいえ、議会は田中の政友会が優勢であり、ふつうに与野党が激突したら野党が負ける公算が高いです。

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人の味


■孟夏の太陽

 お世話になっている方のお宅に遊びに行った時、本を紹介してもらいました。宮城谷昌光『孟夏の太陽』です。

 この本は5編の短編で構成されています。すべての話で、春秋時代の晋の有力者である趙氏の当主が主人公になっています。

 これがなかなか面白く、一気に読んでしまいました。趙氏は晋の大臣の家系なので、主人公がみんな政治家だということもあるのかもしれません。もちろん、「議会」などない時代なので、議事手続きがどうというような話はないのですが、威圧したりされたり、とにかく尽くしたり、ひたすら耐えたりと、人と人との関係描かれているところにグッときました。

■味

 ちょっと前に和辻哲郎『孔子』を呼んだ時や、中島敦『弟子』『李陵』を呼んだ時にも感じたのですが、中国を題材にしたお話には独特の味わいがあります。

 どういう味がするかというと、なんでしょうか、お肉を使った料理とお酒の味です。中華料理という感じではないですね。どちらかというと、お肉はケバブのような感じです。お酒の方は、紹興酒かもしれません。

 近代から現代の日本政治だともうちょっと違う味がするんですよね。なんというか、先ほど説明したものより、もっと水分があるような感じがします。ただ、不思議と味の傾向は似ています。

 それにしても、なんの味でしょうか。政治は人と人との関係ですから、もしかしたら、人の味かもしれません。


江戸時代:溜間詰とは


■溜間詰について調べる

 NHK大河ドラマ「八重の桜」に出てきた「溜間詰(たまりのまづめ)」が気になって気になってしょうがないので、図書館で調べてみました。

 レファレンスルームに行って、日本史コーナーを探します。河出書房から出ている「日本歴史大辞典」の第6巻に「たまりづめ 溜詰」という項目を見つけることができました。溜詰は、溜間詰の略だそうです。

■溜間詰とは

 溜間詰というのは、江戸時代の親藩大名や譜代大名のうち、江戸城内にある黒書院(くろしょいん)溜間に席をもっている大名のことを指します。親藩大名というのは、将軍の親戚にあたる大名です。また、譜代大名というのは、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えた大名のことです。この親藩・譜代大名のなかでも特に高い格式のある大名と、老中経験者が溜間詰になりました。老中とは、将軍直属の幕政全体を取り締まる役職です。

 溜間詰は幕政について老中と話し合ったり、直接将軍に意見を具申できました。また、江戸城内では、常に現役の老中の上座にいて、権威だけなら老中よりも上の扱いを受けていました。

 ただ、時代が下るにしたがって溜間詰の人数も増えてきて、その権威も落ちていったそうです。

■幕末の政治力学

 ドラマにあった通り、ペリー来航にあたっての対応について、溜間詰を代表する保守派の彦根藩主・井伊直弼と、雄藩(勢力の強い藩)代表の改革派である水戸の徳川斉昭の激しい対立があったことは、「井伊直弼」で日本史の辞典をひくと必ず出てきます。したがって、その時点において溜間詰というのがひとつの政治勢力であったことは間違いありません。

 「日本歴史大辞典」には溜間詰の権威がなくなっていったと書いてありました。これは、ペリー来航の時点ではまだあったけれども、井伊直弼が暗殺される桜田門外の変を経てさらに低下していったのでしょうか。それとも、ペリー来航以前に権威がなくなっていたのだけれども、何かのきっかけがあって少し勢力を持ち直したのでしょうか。まだわかりません。

 どうも、ペリー来航時の老中・阿部正弘の政策遂行方針と、その前の時代、水野忠邦による天保の改革に、溜間詰と雄藩の勢力消長のヒントが隠されているように感じます。これがわかれば、幕末の政治力学も理解できるのではないかとも。

 締め切りがあるわけでもないので、ゆっくり調べてみようと思います。


「八重の桜」と政治への興味の原点


■溜の間のシーン

 今年2013年の大河ドラマ「八重の桜」。初回はペリー艦隊の再来まででした。番組終盤、大名が江戸城黒書院(くろしょいん)西湖の間でペリーにどう対応するか協議するシーンがありました。

 「鎖国政策は国の基本政策であるため、開国は断固反対。ペリー艦隊を攻撃せよ」との海防参与徳川斉昭(なりあき)の訴えを受け、老中阿部正弘は「掃部頭(かもんのかみ)殿はどのように思いますか?」と彦根藩主、井伊直弼に話を振ります。井伊は「いまペリーと戦うのはやめておき、とりあえず相手の要求を受け入れておいて、あとは臨機応変に対応していくべきです」と述べます。

 阿部は、ほかの大名の意見も求めます。すると、物語の主人公・八重の実家の主君である会津藩主松平容保が、「自分も砲台を任せられていて、現地視察をしたりしているのですが、装備が貧弱すぎてとても戦える状態ではありません」と発言します。

 開国に賛成する意見に対して、さらに何か言おうとする斉昭の機先を制し、井伊が「溜の間詰一統(たまりのまづめいっとう)、開国にて一致にござります」と宣言します。その言葉を受け、阿部が何かの書類を井伊に差し出すと、井伊はそれに筆をとって何かを書きつけるところで、西湖の間のシーンは終わりました。

 溜の間詰というのは、黒書院に詰めることができる、格式の高い大名らのことを指す言葉です。溜の間詰は単にその場所にいることができるだけでなく、重大事があれば、今でいう内閣である幕閣から諮問されることがあったようです。

■心打たれる

 私はなぜか、このシーンに強く心を打たれました。理由のひとつは、開国という当時の日本の最重要政策が、どのような過程で形成されていったのか、その一端を目撃したような気持ちになったからだと思います。

 理由はもうひとつあります。

 私は幼い頃、両親が参加していた地元サークルの集まりに連れられていました。そこは、いろいろな人達がいろいろな意見を言いあっているサロンのようなところでした。

 大人の真似をしたがるときにそういう場所にいたため、話し合いや会議というものに強い憧れを持ったのだと思います。だから、話し合いや会議の結果が力を持つ政治や、制度、組織に今も惹かれ続けているのかもしれません。

 このようなシーンをほかにも見ることができるなら、今年の大河ドラマも期待できそうです。

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