以前の記事で書いた、福田派・大平派・田中派による三木武夫内閣倒閣運動である「三木おろし」について感じたことを書きます。
そもそも、少数派閥のリーダーである三木が自民党総裁、そして総理大臣になれたのはなぜでしょうか。今年の9月にやったような総裁選をやって決まったのかというと、実はそうではありません。話し合いでもありません。指名で決まりました。いわゆる「椎名裁定」です。
椎名とは、当時自民党の副総裁だった椎名悦三郎です。首相は田中角栄でした。就任早々の1972年の12月の衆議院総選挙で敗北し、その翌々年、1974年7月の参議院議員選挙で敗北し与野党を伯仲させた田中は、週刊誌発のスキャンダルによって追い込まれていました。総理総裁の座を争った三木や福田赳夫も閣僚を辞任し、倒閣に動きます。このとき、ポスト田中の有力候補だったのは福田と、閣内に残り大蔵大臣を務めていた大平正芳でした。
総裁選をやれば、自派に加えて田中派の票を獲得できると大平が有利だとみられていました。しかし、田中のスキャンダルの原因が、派閥の伸長により総裁選挙での派閥対立が激化し、票を集めるために多額のお金が動いているのではないかというものだったため、選挙をするのも難しい情勢なってしまいます。大平も福田も「次は絶対に自分」と思っていたため、壮絶な争いが起こることが容易に想像できたからです。
選挙でないのならば、話し合いという手法が考えられます。ただ、話し合いで大きな影響力をもつとみられる岸信介や佐藤栄作などの長老は親福田であったため、話し合いになれば福田有利だと見られていました。
選挙か話し合いか、どちらを選ぶかで次の総理総裁が決まってしまうような状況だったため、どちらかを選んでも、不利になる派が反発する苦しい状況です。最悪、反発した派が党を割る可能性さえありえるとまで言われました。
田中に後継者選出を一任されたという椎名が、大平・福田の対立をうまくかわし、党分裂の危機を防ぐため、白羽の矢を立てたのが三木でした。三木は自民党のなかでも左派であり、常に野党と連携するのではないかと言われていたため、三木の離党を防ぐという狙いもあったと言われています。こういう経緯で、少数派閥の総理総裁が誕生したのです。ある意味、三木内閣は派閥政治の産物だと言えると思います。選挙をやっていたら、三木はまず総裁になれなかったと思うからです。
少数派閥の総理総裁は、党内の支持基盤が弱いため、政権運営、ことに国会運営がとても難しくなる危うさをはらんでいます。国会で予算や法律を作るには、衆議院と参議院の両議院の過半数を持っていなければなりません。そして、政権与党であるということは少なくとも、衆議院で与党勢力が過半数を持っているということですので、衆議院では予算や法律を可決できる能力があることになります。なぜなら、与党は内閣に協力するだろうという、前提があるからです。そして少数派閥の政権の場合は、少ない人数で党内の多数の派閥をコントロールしなければ、与党に協力させられない可能性がでてきます。野党どころか、与党のコントロールからして、そもそも難しい立場に立たされるのです。この場合、参議院の議席の多少はもはや問題になりません。衆議院だろうが参議院だろうが、少数派閥の政権は、建前ぬきに党内多数派の協力を得なければ政権を維持できないのです。
与党のコントロールができなくなった状態が、「三木おろし」知られる、一連の三木内閣倒閣運動です。もともと福田と大平の総理総裁への野心が大きかったために両者は激しく対立していたわけです。総理になるためにお互いが協力して三木を退陣させようとするのは当然の流れだと言えます。
「三木おろし」により政治は停滞し、その年の臨時国会召集と赤字国債発行を可能とする財政特例法案の成立が危ぶまれる事態に陥ります。しかし、三木は恐ろしい粘りと執念をもってこれを乗り切りました。任期満了前の解散さえ打てなかったものの、自らが総理として1976年12月に衆議院総選挙を戦うことがでたのです。その結果、自民党は敗北し、三木は退陣、福田と大平は手を結び、福田が次の総理大臣になりました。
三木内閣の興亡をみると、中選挙区制が派閥を育て、派閥の影響力が拡大すると党内抗争を抑えるために、少数派閥の政権ができ、少数であるがゆえに政権運営が困難になり、政治が停滞するという、一連の流れを感じます。政治停滞のひとつのパターンとして、「三木おろし」は研究に値すると考えています。