政治を考える」カテゴリーアーカイブ

法案の作成過程と与党


 内閣提出法案を作成するのは、各省庁です。各省庁の担当課が作成にあたることから始まります。

 担当課では法律に関係する団体、議員、他省庁と協議しながら法案を作成していきます。最終的に内閣法制局が認め、閣議によって全会一致で決定されれば、法案を国会に提出することができます。

 自民党政権のときは、この間に自民党内部の政務調査会、総務会の審議や決定を経ることで与党による公的な干渉の余地をもっていました。民主党政権においてどうなってるのかは、よくわかりません。民主党にも政”策”調査会という組織があるのですが、民主党政権成立後しばらくは廃止されていました。

 国会が審議が儀式となってしまい、実質的な審議がなされないとすると、国民の代表である国会議員が法案について議論する場は与党審査しかないように思えます。民主党がどのように法案作成に関わっているのか、少し興味があります。


儀式としての国会審議


 清野正哉『国会とは何か 立法・政策の決定プロセスと国会運営』(中央経済社)によれば、与党も野党も、法案審議において所定のプロセスを経たかどうかを重視しています。

 たとえば、委員会での法案審査は提案者の趣旨説明から始まるのですが、審査の初日は趣旨説明だけで終わってしまいます。趣旨説明に必ず一日かけるのです。そして、趣旨説明が終わらない限り、質疑にうつることはありません。質疑に入らなければ、総質疑時間を貯めることができず、野党の審議が不十分という批判に反論できなくなります。

 審査において所定の手続きを踏むことと、総質疑時間をある程度確保することが求められており、実質的な議論があるかどうかはあまり関係がないようです。もはや、国会審議そのものが一つの儀式になっているとも言えそうです。

 このままでいいのかどうかはよくわかりません。日本は議院内閣制で、内閣は国会に信任されて初めて成立します。国会の、少なくとも第一院である衆議院の多数派が内閣を支持していることが前提になっているのです。

 議院内閣制であること、国会での審議が多数決で決まること、内閣提出法案は与党であらかじめ審査済みであることを考えれば、法案を国会で審議する余地はあまりなく、国会での審議がどうしても形式的になってしまうのうは止むを得ないように思えるからです。

 もし、よくないのなら、変えていかなければなりません。国会で実質的な議論を行うインセンティブを制度改革などによって作り出す必要があります。

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改革と立場と合意と前提


 9月6日に報じられた、経済界・労働界からの国会改革の提言には、「予算と、予算執行に必要な予算関連法案や、特例公債法案をセットで成立させること」、「首相をはじめとする閣僚の国会出席を減らす」などというものがあるようです。それらが実現することには、メリットもあればデメリットもあります。

■立場による、改革のメリットとデメリット

 例えば、予算と予算に関する法案をセットで成立させる提言が実現すれば、今日のように特例公債法案の成立が遅れて財政が危機に陥ることのないように、予算の執行を確実にするメリットがあります。しかし、このメリットは、政府・与党とそれを支持する有権者、行政の主流派、その予算が執行することで生きていける経済界・労働界が享受するものです。

 野党とその支持者や、行政の非主流派、その予算では生きていけない経済界・労働界にとっては、そのような予算が迅速に執行されてしまっては困ります。メリットは受けなくても税金は必ず払うので、なおさらです。そういう人々にとっては、すぐ決まる仕組みよりも、何回も話し合って自分たちの意見が少しでも反映される可能性のある仕組みの方がいいかもしれません。

 これが損得でなく、信念の問題になるとやっかいです。信念として、政府のやることをことごとくチェックすべきだという人にとっても、予算と予算関連の法案をセットで扱うことはあまり良いとは言えないでしょう。

■何を優先するかに関する合意が必要

 予算の迅速・確実な執行も重要ですし、政府のチェックも重要です。しかし、あちらを立てればこちらが立ちません。こういうときは、日本という国は何を優先すべきかという合意形成が重要です。どういう国を目指し、どのような幸福な生活をもたらすために、何を優先すべきなのかを、です。そういう、国民の前提、空気が作られていかないと、結論を出すのは難しいです。

 国会改革とは関係ありませんが、道徳教育が中途半端なものになっているのは、道徳についての国民的な合意がもう失われてしまっているからだと、私は考えています。保守的な人にしろ、リベラルな人にしろ、自分たちの主張をどんどん浸透させることを怠って、行政でガツンとやればいいと思っているようでは、永遠に自らが望む理想の道徳教育はできません。

 特に、「日本人なら当たり前」とか「地球人なら当たり前」みたいな態度ではダメです。当たり前じゃないかもしれないと思って、必死に説得することが必要です。他の国なら宗教のような自明な規範、当たり前のものがあるのかもしれません。しかし、そのような国と、少なくとも、前の戦争に負けて60年以上ほっといた日本とでは状況が違います。自明のものを新たに作ることに苦労するのはしょうがないのです。道徳教育に関する私の立場は、もし今より踏み込んでやるのなら、みんなが合意できるものにしてほしいというものです。

■立場の妥当性と採る選択肢の妥当性をチェックする

 それはさておき、立場と優先順位を明らかにすることは実質的なメリットもあります。「Aという立場に立つので、XとYという選択肢なら、Aを満足するXを優先する」という話し合い方にしないと、どちらも正しいだけに、正論を言い合うだけの意見表明大会になってしまう恐れがあります。それでは、お互いの主張の妥当性をチェックすることができません。

 立場の表明とその利益になる選択肢の優先という考え方が重要です。その選択肢がその立場の利益になるかという観点と、その立場が妥当かという観点の2つにわけてチェックすることが容易になり、意見表明だけであとは喧嘩別れということが少なくなるのです。

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経済界と労働界が国会改革を提言?


 2012年9月6日、経済界と労働界が、ねじれ国会で「決められない政治」を変えるため、国会改革を提言したというニュースがありました。

 人によって差がある、良心や常識に訴えることで政治家の行動を変えようするのではなく、政治のルールを変えることで変えようとするのは大変良いことだと思います。より望ましいと思われる行動をとるのが、議員の利益達成のために一番効率が良くなるのが理想です。

 そのためにも、現状の制度がどのようなもので、どのように運用されているのかを知ることが重要です。単に制度を学ぶだけではダメです。

 なぜなら、組織における人間の行動を左右するものは、文書で存在する制度だけではないからです。思うに、人間の行動を左右するものには4つの種類があります。

  1. 制度上存在し、現実に行動を左右しうるもの
  2. 制度上存在し、現実に行動を左右しえないもの
  3. 制度上存在せず、現実に行動を左右しうるもの
  4. 制度上存在せず、現実に行動を左右しえないもの

 1と4はそのままなので問題ありません。問題は2と3です。2と3は制度を定めた文書をいくら読んでも出て来ません。しかし、これこそが新しい制度を考えるときに重要です。2ならば、なぜ制度が無視されるのか、3ならば、そのような行動を誘発するのは何かを解き明かすことで、より人間をコントロールできる制度を作れるからです。


選挙無効とは?


 衆議院の選挙制度改革がうまくいかない場合、最高裁は次の衆議院総選挙について「選挙無効」の判決を出すかもしれないと、一部で言われています。しかし、本当に選挙無効の判決を出せるのでしょうか。

 選挙無効の判決には、達成のためのハードルがいくつかあります。以下のようなものです。

  1.  最高裁は選挙を無効にする力がある
  2.  現職だろうが新人だろうが、違憲状態の選挙は無効にする考えである
  3.  最高裁は理想の選挙制度を確実に把握している。すなわち、唯一の立法機関である国会が当然採用すべきである選挙制度を、最高裁はもう知っている

 1はすべての前提です。いくら最高裁判所が選挙無効を宣言したところで、国会議員が一人も辞職せず、選挙管理委員会や総務省が選挙を行わなかったら、なんの意味もありません。そういう事態になったが最後、司法の権威は地に落ちます。

 2はもうちょっと感情的な話です。すでに国会議員であった現職議院の当選が無効になるならば、「在任中に選挙制度改革に真剣に取り組まなかったからだ」といういわゆる自業自得論が成り立つ可能性があります。しかし、今まで議員でなかった新人の当選者にとってはあずかり知らないことです。その新人議員の当選を無効にすることは、選挙民の意思を無視することは、果たして許されるのでしょうか。

 さらに言えば、新人議員はすでに選挙資金を使い尽くしており、選挙無効になったあとの選挙に出馬できない可能性があります。資金力という点では、現職議員の方が有利な場合が多いでしょう。選挙無効にすることによって、かえって「違憲状態」を放置した議員が当選し、よりよい新人議員の誕生を阻害するというマイナス効果がありえます。これは、民主主義として正しいのでしょうか。

 3は立法権の問題です。現行の憲法では、国会が唯一の立法機関となっています(憲法41条)。もし、憲法が法律で定めるとしている選挙区の定数配分(憲法47条)を、最高裁が左右できるとなったら、国会が唯一の立法機関であるとしている憲法と矛盾します。これは、看過できない憲政上の危機です。

 もし、憲政上の危機にならないとしたら、「この世には唯一の理想の選挙制度があり、そういう選挙制度を作るのは国会として当然、いや、常識とさえ言える」という世界観が必要です。その世界観を共有する者どうしだったら、最高裁が選挙制度を消極的にではなく、積極的に云々していくことが許されるでしょう。

 もしくは、最高裁の判決は選挙全体を無効とするものではなく、投票価値を著しく毀損している特定の選挙区の再選挙ができるだけであるとするなら、問題は少なくなります。

 以上で見た通り、行われた選挙全てを無効にすることは難しいです。選挙制度の改正は、事実上、また、制度上、国会にのみ任せされていると考えた方がいいでしょう。つまり、国会議員が本気にならない限り、選挙制度は改革されないということです。


参議院の首相の問責決議案、その価値


 2012年8月29日現在、参議院本会議で首相に対する問責決議案が可決されました。こうなったら、いっそのこと臨時国会でも問責の効果があると言い張ってもらって、参議院の首相の問責決議案の効果に関する既成事実を積み重ねることで、実際のところ参院の問責決議にどの程度の価値があるのかはっきりさせてもらいたいところではあります。

 例えば、参議院で問責決議案が出されたことにより、首相が衆議院を解散するのはアリなのでしょうか。

 もし、政府・与党以外の野党が、参議院ですべての議案に審議拒否する、または反対した場合、衆議院の優越がある首相の指名と予算案以外の全て法律が成立しないことになります。また、今日の国家財政を考えたとき、赤字国債を発行しないわけにはいかないので、特例公債法案が成立しない場合は行政の活動に著しく影響を与えかねません。

 この状況を◯◯的に問題がある、といくら言ったところで、意味はありません。問責決議なんか出さなくても、参議院で与党が過半数を持たない時点でこの結果は見えています。単に否決すればいいのです。そして何より、この問題を調整する方法が憲法に書かれていないのだからしようがないのです。

 参議院の首相の問責決議案について考えてきて、最終的にぶち当たるのがこの問題です。すなわち、参議院で首相の問責決議案が可決されるということは、ほとんどの可能性において、参議院で政府・与党が過半数を得ていないということであり、参議院における法案の成否は、問責決議案の可否に限らず、野党に握られているということです。

 こう考えてみると、首相の問責決議案などと言うのは、飾りにすぎないのです。あってもなくてもどうでもいい、箔付けのようなものではないでしょうか。なぜなら、すでに述べた通り、審議拒否や法案の否決といったパワーの有無は、問責決議案の可否に左右されないからです。

 では、何のために箔を付けるのでしょうか。審議拒否にです。あるいは、問責決議案は野党を糾合する錦の御旗にするのでしょう。「参議院として問責決議を可決したのに審議拒否しないのは、議院の一体性を損なう行為であり、参議院の地位を低下させる」という理屈でもって、審議拒否を渋る野党を説得することができるからです。

 この状況を打開するには、参議院で法案が否決されてもなお、法案を成立させる力が必要となります。その力とは、衆議院で三分の二以上の議席でもって再議決することです(憲法59条2項)。

 現状の衆議院の構成で三分の二以上の賛成を得られない場合、この力を得る方法のひとつして、衆議院の解散総選挙が挙げられます。選挙を行なって、与党で三分の二以上の議席を勝ち取れば、参議院が何をしようが無駄です。これは、憲法に明文で保証されています。◯◯的に問題がある、といくら言ったところで、憲法に書かれているのだからしょうがないのです。もっと言えば、この再議決の規定こそが、参議院で政府・与党が過半数を得ていないケースにおける、憲法が用意した衆参対立の調整手段なのかもしれません。

 参議院の首相の問責決議案可決による、首相の衆議院解散はアリです。これを拡大すると、参議院で法案を否決されて解散した、小泉元首相の郵政解散も当然アリになります。

 とは言え、解散が首相の専権事項ならば、どのタイミングで解散しようがしまいが首相の自由であるはずなので、こんなことを考えなくてもオールオーケー。すべてアリということになります。


首相の問責決議案、参議院にて


 2012年8月28日現在、赤字国債発行に必要な特例公債法案と、最高裁に「違憲状態」とされた一票の格差を是正することを目的とした衆議院の選挙制度改革法案の両法案が、衆議院の本会議で可決されました。両法案は参議院に送付され、審議されることになります。参議院で可決すれば、両法案は成立します。

 一方、野党である自民党と公明党は参議院で首相の問責決議案を8月29日に可決させる方針で一致しています。もし、この問責決議案が可決されたら野党は参議院のすべての審議に応じないそうなので、参議院で過半数をもたない政府・民主党は両法案を成立させる術がないことになります。採決どころか、審議すらできないかもしれません。

 首相の問責決議を可決したことによる参議院での審議拒否には、いろいろ意見がありますが、禁止されているわけではないので、強制的に止めることは誰にもできません。おとなしく内閣総辞職するか、なんとなく「そういうのは良くないゾ!」という空気にするしかありません。そういう空気になったときに、野党の政治家が恐れをなせば次の国会で審議拒否はなかったことになります。

 現在開かれている国会は第180回通常国会です。通常国会というのは、毎年1月から150日間開かれる国会です。今年は延長されて、9月8日までにやることになっています。冒頭に書いた通り、この記事を書いているのは8月28日なので、もう2週間を切っています。首相の問責決議案の効果を今国会に限るのなら、審議拒否したところで大したことはありません。せいぜい1週間ちょっと審議しないだけです。予算の執行に滞りは出るかもしれませんが、秋に開かれる予定の臨時国会で審議すればいいのです。否決されるかもしれませんが、少なくとも審議はできます。

 問題は、野党が恐れをなさなかった場合です。首相の退陣などといった政府・与党の譲歩がない限り、次の臨時国会においても問責の効果は持続するとなったら、審議は不可能です。野田政権を現状のまま維持するのであれば、政府・与党は野党を死ぬ気で切り崩して、問責決議を破棄するなりなんなりして参議院の意思を改めて表明する必要があるでしょう。一応そういう手続を取らないと、参議院に限らず、国会決議というものが軽くなり、憲政上の危機をもたらす可能性があるからです。制度などというものは、法文と慣習、パワーによって維持されているだけなので、脆い時は脆いのです。

 野党切り崩し大作戦はあまりに大変で、実現の見込みはあまりないように思われます。そもそもそんなことができていたら、問責決議案が可決されることがありません。問責決議案が可決したとき、空気を味方につけることができなかったら、最低でも野田内閣の総辞職は避けられないでしょう。


法案を人質に取るとは?


 2012年8月26日の新聞に、岡田副総理が、去年は菅前首相の辞職と引き換えに特例公債法を成立させ、今回は解散と引き換えに特例公債法案などを成立させると野党は考えているようだけれども、法案を「人質に取るようなやり方はいいかんげんにした方がいい」と発言したという記事がありました。

 しかし、このように副総理が批判しても口だけにすぎません。野党が法案を人質に取るようなやり方をするのは、そのように行動した方が合理的だからです。

 政府・与党は法案を成立させたい。逆に、野党は成立を阻止し、政権運営を行き詰まらせることで次の選挙で政権をとりたい。このような関係において、野党が参議院で過半数を持っていたら、参議院で政府・与党が提出する法案を片っ端から否決、もしくは審議しないのは当然の成り行きです。

 なぜなら、参議院の権限は非常に強く、首相の指名と予算案以外のほとんどの法律は、参議院で可決されなければ成立しません。参議院で否決されれば、衆議院は参議院に両院協議会という話し合いの場を設け、そこで落とし所を探るか、それもダメだったら衆議院において3分の2の賛成を得なければ法案を可決させるのは不可能になります。

 このことから、野党の行動は「制度上・慣習上認められた権利」であると言えます。制度で許されている行動だから、しているだけです。岡田副総理が本当に現状を憂慮しているのなら、国会法や憲法の改正や、なんらかの議会運営のルール作りを目指すべきです。ただ、政府が国会の運営に口を出すというのは、三権分立の観点から考えてあまりよくないでしょう。議会が政府のいいなりになってしまっては、行政を監視することが難しくなるからです。