参院の所信表明拒否は国会改革につながる


 今国会は参議院で首相の所信表明演説が行われないという異例の事態になりました。

 私は、所信表明演説というものは、両院でやるものだと思い込んでいました。やらなければならないことで、やることが当たり前のことだと思っていたのです。ですから、衆院で所信表明をやって参院でやらないなんてことがあるとは考えもしませんでした。

 しかし、議院運営委員会が国会のスケジュールを決めている以上、議運がやらないと決めたことはやらないわけです。すくなくとも、制度上そうなっています。ですから、議運の力というものをはっきり認識していると、その力でもって所信表明をスケジュールに組み込まないということが思いつくのだと思います。

 認識することによって、権力は権力になります。認識は自覚、権力は権「利」と置き換えてもいいでしょう。

 逆に言うと、いくら権利があっても自覚的に行使しなければ、意味はありません。例えば、議運が国会という儀式の「式次第」をこなすことを惰性でやっている場合は、議運はただの機械です。ここでいう機械とは、ある入力をしたらある出力が返ってきて、それに意外性がないものです。完全に何ものかにコントロールされている存在です。

 絶大な力をもっていても、コントロールされていればなんの恐れもありません。現状維持を望む人たちにはいいことでしょう。でも、ひとたび力を自覚し、コントロールから逃れれば、逆に何ものかをコントロールできるかもしれません。

 今回の参院の所信表明拒否は、新聞でも批判されています。私は逆に、このことは将来の国会改革のいい事例になるのではないかと思っています。国会議員が自覚すれば、今の制度は変えられるという希望が見えたからです。

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