解散権が野党党首にあるわけがないし、そんなことを幹部が主張する立憲民主党は安倍内閣に依存している


■解散権が野党党首にある?

2019年5月26日現在。 「内閣不信任案を野党が提出することが衆議院解散の大義になりうる」と記者会見で記者の質問に答えた菅官房長官の言葉が批判されています。

立憲民主党の枝野代表などが言うには、「内閣不信任案の提出が衆議院解散の大義になるのなら、野党の党首が解散権を持っていることになる」とのこと。まったく意味がわかりません。

■内閣不信任案の提出は解散の大義になりうる

内閣不信任案提出を理由に衆議院が解散されたからと言って、野党の党首が解散権を持っていることにはなりません。事実上、解散権は総理大臣にあり、総理大臣は任意のタイミングで解散できます。少なくとも解散すると決めた総理大臣を止めることは誰にもできません。例えば、旧民主党政権の崩壊を決定的にした野田前総理大臣の衆議院解散を止めることは、旧民主党の誰にもできませんでした。

解散か内閣総辞職かの二択を迫られるのが、内閣不信任案の可決です。「解散か総辞職かという二択を迫られるような疑義を野党の多数が内閣に対して持っているために内閣不信任案を提出するのだろうから、単に与党の”数(議席数)の力”で否決するのではなく、解散によって国民に有権者に選択を委ねよう」。内閣不信任案の提出が解散の大義になるという理屈はおそらくこうです。この理屈は、総理大臣が解散権をもっているから成り立つのです。与党が「数の暴力」で内閣不信任案を否決せずに、解散して国民に信を問うのは、野党にとって願ったり叶ったりのことではないのでしょうか。

そしてまた、解散権は総理大臣にあるので、内閣不信任案が提出されたからと言って常に解散するわけではありません。当たり前のことです。

■情けない立憲民主党の主張の前提

まったくお話にならない理屈なのですが、気に入らないのは、枝野代表らの「解散権が野党党首にあることになる」という理屈に、情けない前提があることです。その前提は、「内閣不信任案を提出したところで、可決されっこない」というものです。

内閣不信任案が可決されたら、総理大臣は内閣総辞職か、衆議院解散か、そのどちらかを選ばなければなりません。総理大臣は、内閣不信任案の可決を静観することを憲法上許されていないのです。それほど重大な決議案を提出しているのですから、立憲民主党は内閣不信任案が可決された場合に総理大臣が衆議院を解散することはを容易に想像できるはずです。ちなみに、内閣不信任案が可決して内閣総辞職した総理大臣はいまだ一人もいません。

つまり、立憲民主党は、内閣不信任案を提出するだけで、可決されることを一切想定していないし、内閣不信任案を可決させる努力も一切する気がないのです。きっと、内閣不信任案の提案理由の説明で、格好良さげな演説を二時間ばかり衆議院本会議でかまして本にして売ればいいとしか思っていないのでしょう。もちろん、解散されたら困るので内閣不信任案は与党の多数をもって否決してもらわなければなりません。

■安倍内閣ありきの立憲民主党

「内閣不信任案の提出が衆議院解散の大義になるのなら、野党の党首が解散権を持っていることになる」などという、皮肉なのかなんなのかわからない言葉が飛び出してくるところに、立憲民主党の安倍内閣に依存した姿勢が出ています。そういえば政党名に「立憲」という言葉を出してきたのも、安倍内閣が進めた集団的自衛権の容認を含んだ平和安全法制に反対するという文脈からでした。

ここ最近の解散権を巡る主張を見るに、立憲民主党は安倍内閣がなければ存在意義がない政党としか思えません。立憲民主党は、立憲民主党対安倍内閣という対立軸しか持っていないために、内閣不信任案提出による衆議院の解散を、「自分たちが内閣不信任案を出したから、安倍総理大臣は衆議院を解散した。つまり、自分たちが衆議院の解散権を持っているんだ」という粗雑な論理を展開してしまうのです。


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